弘法大師絵伝一幅図

第一図 誕生霊瑞
弘法大師は讃岐国(香川県)多度郡屏風ヶ浦の人
父は佐伯直(さえきあたい)の氏 大師は宝亀五年(774)に誕生

第二図 幼稚遊戯
5〜6歳のころ夢の世界で諸仏と対話を交わしていたという。
泥佛を安置して仲間の子供たちと遊んだ。

第三図 四王侍衛 
讃岐国に巡察使が下った。幼い大師を見た勅使は礼拝して
四天王が白傘ささげて従っておられると言上した。

第四図 請願捨身
幼年時、求法を決意しした空海は成就することを祈って峰の上から
身を投げた。そのたびに天人が飛来して、その身を受けたという。

第五図 仏門謹学
おじの阿刀大足に就て勉学した。
京の都で謹操(ごんぞう)僧正から仏教を学んだ。
儒教、道教、仏教の中で仏教が優れていることを
三教指帰(さんこうしいき)にまとめられた。

第六図 出家受戒
二十歳のとき槇尾山に入って出家得度。
二十二歳の時東大寺で具足戒をうけ、この時から「空海」と名のる。

第七図 龍田老婢
播磨の国で一夜の宿を願うと、中から老婆が出てきて
わが夫(つま)が菩薩さまが訪れると言い残したので丁重にもてなした。

第八図 金剛定額
空海の建立した室戸の金剛定寺に魔物が住み着いた。
庭の楠の洞に大師の真影を刻み込んだ。魔物らは消え失せた。

第九図 入唐渡海
三十一歳の時留学生となって遣唐船に乗って唐に向かった。
一行の中に最澄も含まれていた。

第十図 清涼成仏
帰国後大師は真言宗を広めるべく努力をしていたが、
諸宗の高僧たちは反発したので大師は清涼殿で秘密の観法を行って毘盧遮那如来の姿に変わり、
公家、高僧たちは一斉に合掌した。

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1380弘法大師絵伝一幅図
輪法三段表装
180×72.5cm(軸先まで)
桐箱入り
絹本肉筆 ¥400,000
紙本複製 ¥130,000

第十一図 五筆勅号
唐の皇帝から宮廷の壁に揮毫せよと命を受けて両手、両足、口に
五本の筆を操りながら五か所に五行の字を書きつけた。

第十二図 護法結界
奈良の山階寺(興福寺)に修円僧都という人がいた。
大師の入唐中に護法(法力により使役する鬼神)を使わして大師伝法の実態を探らせていた。
大師は結界をつくった。火炎が燃え上がり護法は容易に近づくことができなかった。

第十三図 投摘三鈷
唐土の浜辺から三鈷杵を紫雲に向かって投げ上げた。
三鈷杵は唐の国から紀伊の山中に飛んでいった。

第十四図帰朝奏表
大師は大同元年(806)帰朝した。朝廷に上表文を添えて朝廷に奉った。
経論216部461巻、胎蔵、金剛界の曼荼羅密教の法具など多数。

第十五図 和泉国(大阪府)の槇尾寺は大師出家の由緒の寺である。
この寺は高所にありいつも水が枯渇して不自由であった。
大師が陀羅尼(神呪)を唱え加持を行ったら清水が滾滾と流れだした。

第十六図 神泉祈雨
神泉苑で守敏大徳の法力の効き目がなく、代って大師が修法を行うこととなった。
善女竜王を供養した途端に大粒の雨が落ち始めた。

第十七図 稲荷誓約
大師は修行の途中紀伊田辺で老人と出会い東寺で再会を約した。
東寺の南大門に老翁が二人の女性と二人の子供連れて訪ねてきた。
老翁は稲荷大明神の宇賀御魂命であった。都の東南の地に鎮壇の修法行い稲荷大明神を定めた。

第十八図 高野入定
大師は自らの寺を建てるべく高野の地の下賜を朝廷に願い出た。
朝廷は願いを聞き届けて裁可を下した。寺院、堂塔、住房が整備されここを金剛峯寺と名付けた。

第十九図 三鈷宝剣
高野の樹木を伐採する時に唐土の浜より投げかけた三鈷杵が松の木に掛かっていた。
また堂宇建立の為、整地している時に宝剣が石棺の中から見つかった。
銅の筒を作って元のごとくに高野の地に埋納した。

第二十図 権者自称
光仁9年(818)諸国に疫病が発生した。嵯峨天皇は内裏の大極殿で大師に「般若経」を講説させた.

第二十一図 門徒遺告
死期を悟った大師は多くの門弟たちを集めて自ら開いた寺々を譲与することを遺告状に書き連ねた。

第二十二図 入定留身

承和2年(835)大師は座禅を組み印相を結んで瞑想に入られた。入定された年は62歳。

第二十三図 奥院御廟
穴が掘られ大師の体を安置する。その上に三角五輪塔がたてられた。